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「子どもの読書力 3」  小松原宏子

「子どもの読書力」についてコラムを書いている、と言うと、「大人はどうなんでしょう。」と聞かれることがある。
「子どもの読書力」が成人後の読書力を左右するのであれば、逆もまた真なりで、本を読む大人がたくさんいれば、即ちその人々は子ども時代にも本を読んでいたということになる、と思う人がいるようである。或いは大人になってから本を読む人も結構いて、別に子どもの時に子どもの本を読まなかったとしても、大人になってみんなと同じ本が読めればいいではないか、とか、更に極端な場合、いくら子どもの頃にたくさん読んだとしても大人になって読まなければ何の役にも立たないのではないか、という意見が出てくることもある。つまり「子どもの読書力」についていくら論じても、小さい子は先のことがわからないからあまり意味がないということなのだろうか。あるいは人生のどこかで読書の喜び、あるいは楽しみを知るのであれば、早くても遅くてもたいして変わりはないと言いたいのだろうか。実際、ファンタジー好きの大人はたくさんいるし、「ピッピ」や「エルマー」を大人になって初めて読み、好きになったという人もたくさんいる。しかし、一つ覚えておいていただきたいことは、大人になってから初めて児童文学を読んだ人は、必ずと言っていいくらい、「もっと早く、子どもの頃にこの本と出会っていたかった!」と叫ぶ、ということなのである。

「児童文学」という線引きがなくなってきた、とよく言われる。それも最近のことではない。しかも良いことのように言われる。子どもの文学とされるものを大人がよく読むからだろうか。児童書のコピーに「児童文学を超えた!」とか「これは『児童書』ではない!」などと嬉しそうに書かれるのはなぜだろう。「これはただの子ども向けの本ではない」ということを言いたいのだろうか。それとも大人が恥ずかしがらずに堂々と児童書を読めるようにと気をまわしてくれているのだろうか。いずれにしても、そもそもそういうことを書く人は「児童文学は子どもだましであって、本来は大人が読むに足るものではない」という前提のもとにそのような文言を考えている、と思えてならない。
 大人と子どもが同じ本を読む、ということは新しいことではない。大人のために書かれた『ガリヴァー旅行記』や『若草物語』『足ながおじさん』などは当初から子どもにも喜ばれ、逆に子どものために書かれた『モモ』や『ナルニア国物語』も大人に広く読まれている。このような例は枚挙にいとまがなく、私自身もそのような作品が多いことは喜ばしいことだと思っている。作者の意図する読者層が大人であれ子どもであれ、読むときの、あるいは読む人の年齢によって感じ方や理解の深さが変わるような本は、奥行きと魅力とを兼ね備えたすぐれた作品だからである。
 ただ、それだからといって「児童文学」という線引きが必要ない、あるいはなくそう、という考え方には賛成できない。ましてや作者が「大人の読者を意識して」児童書を書く、という行為には非常な不快感すら覚える。

 それでは、「児童文学」とは何だろうか。簡単そうで難しい問題である。
「子どもの視点で」「子どもの心で」ということがよく言われるが、実際に本を書くのは大人であり、それを選んで手渡すのも大人である。ここが大人の本との違いで、大人の本を書く人は自分なりの視点で自由にものごとを訴えかければいいし、読み手も自分で選び、自分で読んで自分で好みを判断する。しかし子どもの本は違う。子どもの本の作り手は、無防備な子どもの世界に、必要なものを正しく置いていかなければならない。作家は子どもの心をもっていなければいけないが、作家自身が子どもであっては困る。すると今度は「子どもとは何か」という問題にまで突き詰めていかなくてはならなくなる。イエス=キリストは一人の幼子(おさなご)を抱き上げて「誰でもこの幼子のようにならなければ天国に入ることはできない」と語ったが、この「幼子」の解釈については以後二千年にわたって論議を呼ぶところとなった。「子どものように純粋で無垢な心をもっていなければ救われない」という説明が一般的とされるが、時に子どもは残酷でずるいところがあるからである。子どもはまた、無知で自己中心的で自立していない。子どもは大人が思っているほど単純ではなく、天真爛漫であるかと思えば時にはあざとく、両手を広げてお母さん大好きだよ、と誰はばかることなく言うかと思えば、人に隠れて残酷なこともする。そんな子どもの姿を、かつて子どもであった大人たちは理解できずに途方にくれる。そのうち、大人だって一人一人違う人生を歩んでいるように、子どもだってそれぞれ個性があってひとくくりにはできない、早く大人になる人もいればいつまでも子どもみたいな人だっている、だから「大人」「子ども」という定義は無意味なのだ、と言い出す。その結果、それと同様に誰がいくつで何を読もうと自由だから、「大人の文学」「子どもの文学」なんて分けなくたっていいじゃないか、という結論に至ったりもする。
 しかし大人と子どもは違うのである。決定的に違うのである。自立の度合いが違うのである。児童文学とはまさに「自立に向かっていく子ども」にその道をつけ、その道を広げ、その道を見せるためにあるのだと私は思っている。その場合の自立とは、経済的社会的な自立のことだけではない。その年齢にふさわしい、その年齢でできる、精神的な自立である。おねしょをしていても自立している子どもがいるし、社会的地位があり家族を養っていても自立していない大人がいる、というのが私の持論である。
 もう十数年近く昔のことになる。どこかで五歳の男の子が誘拐されて車で連れ回されたあと、二、三日後に救出され保護されたという事件があった。犯人も逮捕され、無事な姿で警察署から出てきた男の子に報道陣が群がり、「怖くなかった?」「犯人はどんな男だった?」と矢継ぎ早に質問した。その中で、ある若いレポーターがマイクを向けてこう聞いた。「食事はちゃんとさせてもらっていたの?」すると男の子は首を横にふった。その若い男性レポーターは驚いて「犯人はご飯を食べさせてくれなかったの?」と言った。男の子は「うん。」と大きくうなずいた。そしてそのあと誇らしげにこう言ったのである。「自分でパンを食べた。」
 普段子どもに接していない大人には不可解なことかもしれないが、五歳の男の子にとって「食べさせてもらう」というのは食べ物を誰かに口に入れてもらうことである。この子は犯人が買ってきたパンを自分で口に運んだのだから「食べさせてもらった」ことにはならない。この子の考えを、大人は「無知だ」と笑ってよいだろうか。おそらくこの男の子のインタビューを見て感動したのは私だけではあるまい。この子はたった五歳で両親から引き離され、家にも帰れず見知らぬ人の車で何日も過ごさなくてはならなかった。それにもかかわらず無事に保護された時には泣きもせずぐずりもせずに自分の足でしっかりと立って、マイクに向かってはきはきと質問に答えたのである。「五歳の自立」を見せてくれたこの子に向かって「そのパンは犯人のお金で買ったものだろう。君は車に座っていて食べ物が運ばれてくるのを待っていただけなんだから『自分で食べた』ことにはならないよ」などと言う者がいたら、そちらの方が何もわかっていない人間である。しかしこの男の子もやがて学校に入り、さまざまな基礎知識を身につけ、友達と仲良くしたり喧嘩したりして成長し、受験や就職や結婚を経て人生の葛藤を経験したあとでは理解するだろう。パンは自分の手から口へと運ぶだけでは「自分で食べた」ことにならないということを。パンが自分の手に届くまでには幾多の人の手を通ることを。そしてそのパンを手にするにふさわしい人間になるために自らもまた努力しなければならないことを。逆にその年齢になってもまだ「お母さんに口に入れてもらったわけじゃないんだから自分で食べたんだよ」などと言う人間がいたらそれこそ笑い者である。ただの幼稚な人をさして「子どもの心をもっている」などとほめるわけにはいかないのである。

 児童文学の作り手はパンがどこから来るかを知っている人でなければならない。そのうえで、パンを自分で口に入れる子どもに敬意を払える人でなければならない。
一個のパンの重みを知っている人でなければならないが、いきなりパン工場の収支決算を見せてパンの有難さをまくしたてる人であってはならない。子どもに「パンはどこから来るのか」考える道を見せられる人でなければならないが、しかしその道を子どもがわき目もふらずにまっすぐに進むように強いる人間であってほしくはない。道草しながら楽しみながら、本と現実のあいだに境界線を引く前の年齢の子供たちに向かって、自分もまた境界線を乗り越えて行って語りかけられる人でなければならない。「神様、明日の朝ごはんのパンにどうかバターがたっぷりぬってありますように!」と心の底から祈る子どもの姿を、洗練された筆致で描いたアンデルセンはまさに叡智の人である。

子どもに本を手渡す人もまた、書く人・出版する人と同じくらいの高い意識をめざさなければならない。私が「文庫」をもつ理由はそこにある。「読書力」は単に量の問題ではない。だから私は「今売れている」「読まれている」という理由だけでは本を文庫に置かない。文庫は図書館でも書店でも貸し本屋でもなく、「ここにある本ならばどれを読んでもだいじょうぶ。甘いお菓子でおなかいっぱいになって虫歯や病気になるのではなくて、ちゃんと心の食事になって幸せになれるものばかりですよ。」と言える、厳選された本の場所であるべきだと思うからなのである。ベストセラーや学校の推薦図書を置いていなかったがために子どもの読む本の冊数が一冊減ったとしてもそれを私は恥とはしない。しかしそれが子どもの世界をほんの少しでも広げるものならば、やはり一ページでも多く読んでもらいたい。ぜひとも、子どものうちに。そう言える大人の私が今ここにいるのは、子どものときに文庫に通ってたくさんの本を読み、あまたの世界と現実世界を、そうとは知らず行きつ戻りつ旅してきたからだと思う。物語の中にある道を、大人もまた見て楽しむことができることは確かだが、子どもは時にその道を本当に歩くことができる存在であることを忘れてはならないと思うのである。
 


てらいんく社の雑誌『ネバーランド』内コラム、「ロールパン・ママの二言」から再掲

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「子どもの読書力 2」  小松原宏子

 今の子供は読書力が低下しているというが、今の親はそのことを嘆く一方で、子供から本を読む時間をとりあげていることも確かである。これは今に始まったことではなく「子供が忙しくなった。」と言われるようになってからもう二十年以上も経っている。「文庫育ち一期生」時代の私たちの時代でさえお稽古事も受験もあったはずなのだが、それでも今よりはましだったのだろうか。まあ、週一回文庫に通って本を読みふけるくらいのひまはあったのである。

 わが子を含めて、なぜこんなに今の子供たちが「忙しい」のか考えてみると、よく言われることに、「親が忙しい」ことが挙げられる。「女性の社会進出に従って働く母親がふえ、親子でゆっくり過ごす時間が少ない」のだ、と。だから子供を「ちゃんと育てる」ためには母親が家にいて読み聞かせをしたり遊んでやったりしないといけない、と。
 では、保育園や学童保育に預けられていない子供は情緒豊かでよく本を読むのだろうか。私が見ている限りではそうとも言えないと思う。親が家にいても子供はなぜか忙しい。その理由は手にあまるほどのお稽古事と勉強をさせられているからなのだ。むしろ集団保育を受けている子供の方が、保母さんや指導員に本を読んでもらって、お話にふれる時間が多いくらいである。
 自戒の念もこめて、親がそんなに子供の学校外教育に走る理由を考えてみると「今しかできない」という強迫観念に捉われ過ぎていることだと思う。ピアノ、水泳、英語、体操、そろばん、習字…。どれをとっても親は「今しかさせられない」と思っている。理由は二つ。一つは「おとなになってからでは遅い」という信念、いや、「信仰」。そしてもう一つは、「大きくなるともっと忙しくなるから。」という固定観念である。

 一つ目の、「早く始めなければ。」という思い。これは、子供の吸収力を見ると親なら必ず一度は陥る罠である。何をやらせても、教えれば教えただけ上達する姿を見ると、「大人になってからではできないことも、子供のうちにやらせればできるようになる。」と思い込む。英語を教えればたちまちネイティブのように発音し、ピアノを教えれば労せずして絶対音感を身につける。親は有頂天になり、「あれもこれも」と夢をふくらませる。しかし冷静になってみると、いくら単語の発音ができてもそれだけでは英語を話すようにはなれないし、ピアノが弾けても全ての人がピアニストになるわけでもない。それに、どの世界にいても「一流」と目される人は、いつそれを始めてもやはり一流になるのであり、目されない人は早く始めてもはやり一流にはなれないのである。それでも親たちは「少しでも早く」と生き急がせたいのだろうか。
 二つ目の、「大きくなると忙しくなる」という思い込み。たしかに中学生になると授業時間は長くなり、部活動も始まる。高校生になると通学時間も加わり、受験勉強もしなければならない。そうなると、親は本人の気に入っているお稽古事もやめさせて、少ない時間を「お勉強」に充てさせようとする。そういう行動をとる自分の姿が見えているのか、中学生になる前に躍起になってあれもこれも「させてあげよう」ということになる。「やらせたうえでやめさせる。」これが今の日本の親が子に与える「情操・体育教育」の実情かもしれない。本当のところは中高生になればその分体力も知力もついてくるし、時間のやりくりも自分で考えるようになるので、おとなが思うほど物理的に「時間がない」わけではない。それに、早期教育の成功の秘訣は「継続」にあるのだから、子どもが気に入っていることを一つか二つ、細く長くやらせる方がよほど効果的だと思うのだが。

 読書の話に戻ろう。

 わがロールパン文庫に来ている子供はほとんどがうちの公文教室に来ている子供である。文庫だけに来る、という子は残念ながらなかなか定着しない。そのかわり公文教室の子供は実に良く読む。生徒は五十人あまりだが、中には全く借りない子もいるのに、常に百枚以上の貸し出しカードが箱の中に入っている。
 また、教室時間中にもよく本を開いて読んでいる。プリントの採点を待つ間、一緒に帰る友達を待つ間、お迎えの家族を待つ間…。ひざの上に絵本を広げて食い入るように見つめている幼児、本を次々に手に取って選んでいるうちに一冊を読み始め、立ったままいつまでも読みふけっている中学生。そんな姿を見ているとぞくぞくするほど嬉しくなってきて、日本の将来も捨てたものではないと思えてきたりする。ただそこに本がある、というだけで、子どもは結構読むものなのだ。週に二回、本でいっぱいの小部屋に足を踏み入れる機会がある、というだけで子供達は勝手にどんどん本を読むようになっていく。

 しかし保護者の見方はいろいろである。ほとんどの保護者は純粋に本のある環境を喜んでくれていて、自分もいっしょに楽しんでくれるのだが、中には「本を読むのは待ち時間だけ。プリントが終わったらさっさと帰ってくること。」と指示する親もいるし、「家では読む時間がないから借りて来ないでね。」と子供に言っている親もいる。
 それでいてみな一様に嘆くのである。「うちの子は本を読まない。」「本を読まないから国語が苦手。」そして、高学年になってから、「今さら本を読めと言っても時間もないですしねえ。」と。そして進学塾で国語を習わせ、「本を読まないから成績が上がらないのですが、塾が忙しくて本を読む暇がないんです。」と、禅問答のようなことを言っている。学校に対しては「放っておいたら読まないから課題図書を出してくれ」と要求する。子供にしてみたら童話を読んだことがないのに高校に入っていきなり太宰治を読めと言われても、ラジオ体操もしたことがないのにフルマラソンを走れと言われているようなもので、「読めっこない」のである。しかし親や教師たちは「日本語が読めるのだから読めるはずだ」と言って「読まなきゃいけない」「読めなさい」などと、無理難題を言う。

 それでは小さいうちから子供に読書力をつけるために親ができることは何か。まずは自分自身が解放されることである。「子供がヒマになることを恐れない親」になることである。子供に「予定」は必要ない。先のスケジュールなど決まっていなくても楽しく、あるいは悲しく過ごせる子供の特権を親がとりあげてはならない。本を読む時間云々という前に、親が一度育児に対する恐怖感を捨て去ることである。「何をしてあげられるか」ということと同時に「何をしないであげられるか」ということも考えなくてはいけない。お話の中には、年間を通じて決まりきったスケジュールの中で忙しく過ごしている主人公などいない。人生という「お話」もまた然りである。そんなお話は魅力がなくそんな主人公は誰からも愛されない。
「うちの子だけ取り残されたら。」と心配する親もいる。しかし、ピアノも水泳も英語も、実は大人になってからでもできることには案外気づいていない。時間はかかるだろうが、その分自分の意思と責任において、楽しくやりたいことをやればいいのである。また、中高生や社会人になっても、本当に好きなことはなら寸暇を惜しみ時間を割いて没頭できるものである。「今しかできない。今しか。」という強迫観念に捉われて子供時代をいじくりまわす必要などないのである。子供のときにお稽古事などひとつもやったことがなくても、豊かな人生を送ることはいくらでもできる。逆に、小さいときに多才で勉強がよくできたのに、大人になって無趣味な生活を送っている人は案外多いのではないだろうか。「登校拒否」「ピーターパン症候群」から始まって「パラサイト」「引きこもり」「ニート」へと続く現代病、あるいは現代気質をもった若者たちは、むしろ教育を受けすぎて、消化できない食べ物を無理やり口におしこまれた挙句、生きる力を失い、社会に適応できなくなったような気がしてならない。友達と過ごす時間すら減らされて、争いも挫折も知らずに大きくなった結果のことなのだと思う。

 では、本も早くから与える必要はないのだろうか。残念ながら読書についてはそうではない。子供のときに本を読んだことがない人が後年豊かな人生を送ることはないだろう。ピアノは「弾けるように」、水泳は「泳げるように」なればそれが何歳であっても大差ないが、子供時代の読書は、それこそその年齢でしか味わえない特別の喜びがあるのであり、それが一生を左右すると言っても過言ではない。その点について論じることは紙面の都合上できないが、すでにすべての人の共感を得、一致しているところである。それに、本の世界で子供は人との関わり方、喜び方、処し方、耐え方を多く学ぶことができるのである。
だから、子供を予定表から解放し、自由にした後ですべきことは、やはり大人が手を貸して読書の喜びを伝えることだと思う。子どもが手持ち無沙汰になって日がな一日テレビの前にすわっているのでは逆効果である。

 まず読んであげること。働くお母さんは保育園や学童保育にまかせておいてもいい。家にいるお母さんは近所の図書館や文庫の読み聞かせに連れて行くのもよい。家に大量の本をおいて子供に押し付ける必要はない。ただ、「今日エルマーのお話を読んでもらったから買って。」などと子供に言われたらぜひ買ってやってほしい。「まだ読んでない別の本を買ってあげる。」と言ったりはしないで。そして「読んで。」と言われたら自分の時間を割いて何度でも読んであげよう。「もう先生に読んでもらったんでしょ。」とか「字が読めるんだから自分で読みなさい。」などということは言わずに。それだけのことで充分である。
 一日に何冊、あるいは何分読んであげる、など「予定」や「ノルマ」を作る必要はない。それは再び子供を忙しくさせる。また、借りてきた本や買った本を子供が読まないからといって怒る必要もない。いやがる子供を無理やりすわらせて本を読み聞かせる必要もない。親が「本を読むよろこびを伝えたい」という気持ちをもっていて、子どもの読書を見守ろうという気持ちさえあれば、子どもは必ずいつか自分の好きな本に出会う。そのときにいっしょに喜んでやりさえすれば、子どもは必ず本が好きになる。
 引き際を心得つつ、大人が楽しんで子供を本に導いてやること(決して「うまく導く」のでなくていいから。それは図書館や文庫の人にまかせてしまおう)。読み始めたらいくらでも読ませてやり、読む時間をとりあげないこと。「読書環境」とは、ただそれだけのことなのである。


てらいんく社の雑誌『ネバーランド』内コラム、「ロールパン・ママの二言」から再掲

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「子どもの読書力 1」  小松原宏子

 そもそも「子供の読書力」とは何なのだろうか。
 子供の読書力が低下した、という声が聞こえるようになって久しい。すでに二十年以上も前、作家いぬいとみこは自ら主宰する「ムーシカ文庫」の子供たちの読書力が落ちている、ということをなげいている。
 四十代のわれら元文庫生が集まっても、寄るとさわると「うちの子はかつての自分よりも本を読まない」という話題で盛り上がる。決して「本を読んだ」自分を誇るのでなく、「本を読まない」わが子および日本の子供の行く末を案じてのことである。
 しかし何をもって「読書力」と言うか。
 子供はもともと字が読めない。字が読めなければ文が読めない。文が読めなければ意味がわからない。意味がわからなければストーリーがわからない。ストーリーがわからなければ文脈、示唆、伏線、言葉のあや、どんでんがえし、といった、流れの中での機微がわからない。そして物語全体のおもしろさがわからなければ話の続きへの期待を感じることがない。そして期待がなければ次のページをめくることもない。
 つまり子供が自力で本を読むに至るまでには長い道筋を辿らなければならないわけだが、「本を読む力」は決して先天的なものではない。生活環境の中で身につけていかなければならないものである。私達「本を読んだ」世代も、無意識のままに家庭・学校・地域のどこかで「学習」していたのだろう。では読書力が低下している、というのはこの学習環境が劣化しているということなのだろうか。
 読書の原点である識字に関して言えば、学習指導要領の変遷をたどると答えはむしろ逆である。「子供時代に最も本を読んだ世代」である今の四十代が小学校一年生で習った漢字の数は46字、現在の一年生が習う漢字は80字。二年生では105字であったのに対し現在は160字となっている。今の子供のほうが倍近くもの漢字を習っていることになる。これで本当に子供の読書能力がそこまで低下しているのか、と首をひねりたくもなってくる。
 もちろん「読書力」が字を読む能力をさすことではないことは明らかである。そして「字を読む能力と関連づけられない読書力」の定義とは何か、と言うと、その答えもまた決して単一ではないだろう。
 では何をもって「読書力の低下」と言うか。
 「ふるき良き時代」をともに過ごしたいぬいとみことムーシカ文庫の子供たち。その子供たちがおとなになった今、主宰者であったいぬいとみこと同様に、口をそろえて「最近の子は本を読まない。」と言う理由。その答えはずばり、「昭和四十年代のはじめに自分たちが低学年で読んでいた本を、今の子供は小学校高学年になっても読めない」という現実なのである。
 あの頃のわたしたちは何を読んでいたか。
 『長くつ下のピッピ』に代表されるリンドグレーンの作品の数々、『ひとまねこざる』『百まいのきもの』をはじめとする岩波こどもの本、メアリー・ノートンの『床下の小人たち』。その他ルーマー・ゴッデン、グリーン・ノウのシリーズ、ドリトル先生などはほぼ小学校低学年・中学年のうちに読み終えていた。そして高学年から中学生にかけて、ナルニア、アーサー・ランサム、フィリパ・ピアス、ミヒャエル・エンデ、カニグズバーグ。
 こうして思いつくまま羅列するだけでも、改めて思うのは「今の小学生には読めない。」という現状である。
 「なぜこれらの本を読めなくなったか。」という問いの答えは複数あることだろう。しかし先日、私はある小学校の先生のひとことに衝撃を受けた。
「この翻訳では読めないでしょう。」
 断っておくが、彼はリンドグレーンの大ファンである。もちろん子供のころから大塚勇三訳の岩波版を愛読し、原書を読んだことのないまま今日に至っている。また、小学校時代にその他の児童文学作品も多数読んでいたという。その点では生え抜きのムーシカ文庫卒業生と何ら変わるところはない。ただ、中高年になって自分の子供がある程度育ったときに「今の子って読めないのね。」と驚いているわれわれと違い、彼は長年小学校の現場で三、四年生の読書教育に力を注いできている。そして三十年もの間、小学校中学年への読み聞かせを続けているのである。当然のことながら彼の受け持った小学生の読書能力は他の子供より高い。それでいて、彼は言うのである。「この翻訳では読めない。」
 子供がかつての自分と同じ本を読まない理由のひとつが翻訳にある、というのは目からうろこの新発想だった。もちろん翻訳に問題がある、といっても原語から日本語に転換するという翻訳作業そのものの性質の話ではなく、誤訳・悪訳をさしているわけでもない。少子化のうえに読書力低下のこの時代にあって、なおも書店の棚から消えることのない『ピッピ』シリーズ。翻訳を手がけた大塚勇三の洗練された日本語自体には微塵の問題も感じられない。むしろ外国語は得意でも日本語は得意ではないらしい最近の訳者による稚拙な翻訳とくらべ、それ自体文学の香り高い、高度に完成された一流の「作品」と言ってよいものだと思う。
 ただ、「今の子供」が読んだときにどう思うか。「とびきり上等」という言葉からすばらしくわくわくするものを想像するだろうか。「たいした子だよ!」というせりふを聞いてその子に会ってみたいと思うだろうか。おとながふだん使わない言葉に対して子供の反応が鈍くなることは避けられない。そして何より文体である。一つ一つの単語レベルよりも全体を流れる文章の雰囲気がやはり四十年前のものであることは否めない。これをこのままかつての自分たちと同じように受け入れることを現在の低年齢の子供に要求し、「読書力は低下している。一年生でピッピが読めないから。」と結論づけてよいのだろうか。
 『少年H』『五体不満足』『ハリー・ポッター』などのベストセラー作品は子供が活字の長編そのものが読めないわけではないことを証明してくれた。現代のおとなの課題は「次なる読書(読書習慣)」につなげることと、もっと低年齢層に活字を定着させることだろう。六、七歳でも長編が読めることは四十年前の子供が証明してくれている。
 そして遅くとも小学校三、四年生までに読んでもらいたい長編と言えばやはりリンドグレーンやメアリー・ノートン、というところに話は戻る。『ピッピ』や『小人たち』に中高生になってから出会ってはいけない、とは言わないが、やはり小学生のうちに読んで本気でその世界にひたってもらいたい。しかし離れていった子供たちをどう引き戻すか。実はそこに翻訳文学の強みがある。四十年前の訳が古ければ翻訳し直せばいい、という強みが。作者が書いたそのままの言語ではない、という弱みはここで「新しい時代の子供たちに合わせて翻訳し直せる。」という強みに大転換できる。児童文学の世界でのみ言える逆転の発想である。日本人作家によって日本語で書かれた作品を、私達は「少々古くなってきた」と言って書き換えるわけにはいかない。しかしこれが外国作品であれば…。リライトあるいは訳者の交替によっていくらでも生き残らせ、いつまでも子供たちに与え続けることが可能なのである。原作のおもしろさ、すばらしさを翻訳の範囲で最大限に残したままで。そして「ごたごた荘」「竹さんの靴」あるいは『ひとまねこざる』といった数々の名訳単語だけを新しい文体の中でもそのまま残しておくこともまた可能なのである。
 ふるき良き時代の品位を保ったまま、なおかつ現代の子供に喜ばれる新たなる翻訳を試みることは、「読書力の低下」を抑える一つの新しい方法論なのではないだろうか。


てらいんく社の雑誌『ネバーランド』内コラム、「ロールパン・ママの二言」から再掲

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